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10月が今日で終わりを迎え、また書きたいことがたくさんある1週間になった。

 

久しぶりのよもぎ蒸しを再開し、お腹から温まるこの感覚。

全てを手放してリラックスに徹する30分間を過ごすこの感覚。

きっと私には必要な物だ、と実感する時間となった。

 

そしてお休みの今日はあやかさんと7月の終わりぶりにデート♡いつものカフェで。

この3ヶ月で、わたしにも、あやかさんにも、

本当にいろいろなことが起きていた。

2時間では語り尽くせ無いけど、でもお互いに通じ合えるきもち、からだの経験をして

今日のおしゃべりからもまた、得る物がたくさんあった。

そしてあってい無い間も、思ってくれていた時間があったことを聞き、

とてもとても温かい気持ちで満たされた。

 

 

今週は気づくことがたくさんありすぎる週だった。

自分の中で

夢の中で

周りに起こることの中で

突然聞こえる声の中で

いろんな方面から、いろんなものを注がれたような感覚だ。

 

時系列で追っていくと

この3週間ほど、夢が騒がしく、登場人物が多い。

特に小中学校高校の頃のクラスメイトなんかが出てくる夢も多くて

内容は、合奏をする前の部活っぽいシーンだとか

車の運転?水泳?

テストの勉強をしていない、遅刻をしそう、卒業論文の書き直しを全く進めていない・・・

そういうものばっかりで。

全部、苦手だったこと、精神的に追われていたもの、私を緊張させていたもの

強張らせていたもの・・・。

起きた時の心地はとても悪く、あああれに取り組まなきゃ。。。間に合わない。。

そんな気持ちばかりを味わう。

 

私はいつも、成長をしたい、と望んでいる、それに向かって努めている。

その成果が、点数・評定が上がってだとか、順位が上がってだとか

形に現れると、嬉しいし安心して不安を取り除くことができた。

音楽については点数評価ではなんとも表せないけれど

間違いをせずスムーズに、イメージ通りに演奏ができたかどうかなんてところで

判断をしていた。

逆に、それらが失敗に終わると、ひどく落ち込んだ。

 

結果が出る前や本番前は

それがうまくいくかどうか不安になり、ひどく緊張した。

人ならそれくらいを味わうのが当たり前なのかもしれないけど

緊張しやすい質の私にとってはその状態がひどく負荷がかかっていた。

 

その緊張がきっと今にも残って、こうして夢を見るのだと思う。

 

同時に

今歩んでいる人生は、

点数をつけられることも

人からいい悪意を評価されることもなく

そのせいで?おかげで?

自分が果たして正しく努力を重ねられているのか、成長しているのかがわからない。

 

だから点数で評価されて喜ぶという単純サイクルを好んでいた私にとって

自分を認めてあげることが少し難しい仕組みの土壌に立っているのだと思う。

 

いいのか、悪いのか、は判断できない。

でも

ここまでの人生で蓄積してしまった緊張を少しずつ緩めるという作業は

今もこれからもまだまだ必要な作業であることは確かだ。

そして今とこれからに関しては、

点数や形でわかるものでない、他の方法で自分自身を

ほめる、みとめる、その作業をしてあげると

きっと自分が喜んで、もっと頑張っていけるのじゃないかと

あくまで仮説だけれど気がつくことができた。

 

 

 

みちこさんとのセッションでも得られた気づきだけれどとにかく私は

自分自身で植え付けたものに縛り付けられる癖がある。

 

夢の話は上のところまでにして話を変えると、

子どもを迎えることについて一つ気がついたことがある。

 

子どもができることが怖い、悪、という感情が植え付けられていたことに気がついた。

きっかけは昔付き合っていた彼のお母さんが放ったひとこと。

何気ない言葉だったと思う。

「子供だけは作るなよ!!!」と

 

当時は大学生だったし、確かにその時はこの言葉を受け入れるのは

間違っていなかったと思う。

でもこの時の言葉のインパクトが私にとっては強くて

その彼と、子どもができたらどうしよう、と。

その恐れからピルを飲むようになったし、

彼とお別れをして新しいパートナーになりそうな人と出会った時も

(うまく進まなかったけれど)

子どもができて”しまう”ことが怖くて

一度やめていたピルを再び飲み始めたのだった。

 

多分この言葉は自分が考えていた以上に自分の脳に根付いていたのだ。

 

なぜか今週そのことにふと気がつく瞬間があった。

 

それと同時に

もう怖がらなくていいんだ。

いつでも迎えられるんだ。

なぜなら、私の気持ちもready,

そして私には一緒にこどもを育てていけるパートナーがいる、

そして安心安全心安らぐマイホームもある。

6月の数週間と8、9月の1ヶ月ほど

パパとママとして過ごしていた私たち。

夫婦同士でも、子どもに対してもしっかりと向き合っていく

心の準備と覚悟ができていると思う。だから大丈夫、

 

今までの恐怖心を少しずつ和らげていこう、

これを教えてくれたのもまたふたごちゃんの存在だったね。ありがとう。

 

それを週の前半に気がつき、週の後半にはまた

もっとリアルな形で自分たちの家族をおおきくしてゆけるんだと実感できる瞬間もあった。

 

月曜日、ふたりで近くの大きな公園に行った。

秋の青空、そよかぜ、コスモス。木の香り、土の香り、秋の花の香り、少し冬が近づいてくる香りに包まれながら公園を歩いた。

 

その時に

あ、こどもが産めるな、の感覚。新感覚。

 

でも確かな感覚。

 

言葉にするのは難しいけどそう思うことができた。

 

公園をゆっくり散歩して

そり滑りをするこどもたち、ふわふわで跳ぶこどもたちを見て

あ、子どもたちをここに連れてくるためにこの町に来たのかもしれないな、と思えた。

 

その翌日の今日は、今までの人生で初めて

ベビーカーを押している自分の画が見えた。嬉しかった。

 

 

休日ここまで満たされた思い、前向きな思いを抱けているのは

日曜日の夜に、満月の素敵な時間を過ごせたから、という理由も大きいかもしれない。

 

近所のお店で7周年特別のディナーをいただいて

美味しい、楽しい、幸せのシンプルだけど自分の中で一番好きな感情を味わった。

店主の方にお祝いの言葉もかけられて

本当に好きな町にやってこられたと感じられた。

 

婦人科も近いし、ふたごベビーカーが置いてある家も近いし

いつもあの道を通る時は実はすごい胸が痛む。

でもそれさえも愛おしいと思うくらい、

大切で、必要な経験だったと思えるくらいの

美しい満月を眺めて、

全てに理由があるのだとしみじみ感じられた。

 

 

 

このひと月は

命、生と死を考えることがあまりにも多い月だった。

 

オーナーのお母様がご逝去されたり

近所のお店の看板猫がなくなったり、

少し前に遡ると、お爺さまの1周忌に出席したり、

兄の奥さんのお母様が半年の余命宣告を受けたり。。。

イギリスのパパが心臓の手術を受けたことを聞いたり、

同僚のご主人の死から1年が経ったり。

自分自身もつい先月に我が子たちの死を経験したり。

 

主には自分たちの流産のことで頭がいっぱいだったけれど

急にそんなふうには思っていられないということが周りでばたばたと起こった。

 

いのちの問題とは少し離れるけど

 

主人が指を骨折して手術することになったり

私の母が知らないうちに肋骨を折っていたり。

 

自分にとって一番身近で

一番大切な人たちが傷を負っている。

 

こんな時こそ、自分に何ができるのか。

何を選択するのがベストなのか。

 

 

難しい局面にいる。

 

と自覚をしているけど

 

同時に愛もすごく感じている。

この愛を、形に、行動に表していくときこそいまなのではないか。

 

 

感謝と祝福・・・

赤ちゃんたちが抱かせてくれるもの。

胸が温かくなるし、背中を押してくれる。

 

 

今週は気がつく子と学ぶことが多すぎたけど

一つ自分の生まれてきた使命も湧いて、聞こえたきた

 

Spread LOVE

 

馬鹿みたいかもしれないけど、これなんだよな、これしかないんだ。

 

 

全てのことが簡単でないのはわかっているけど

どれに対しても思い残すことのない行動をしていきたい。

 

そればかりを思う、火曜日の夕方。

 

思うことが溢れてゆく火曜日の夕方、10月の終わり。

 

 

めも

死が絶対的ではない

と悟る。

今まで市だけが絶対的なものだと思っていたけど

死さえも絶対的ではない。

 

死を迎えるからって終わりじゃないんだということ。