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何があっても、日々は容赦なく進んでゆく。

自分だけが置いてけぼりになっている。

 

支えられているから、簡単にはいえないけど

毎日が本当に辛い1週間だった。

 

書くのが辛いけど、今週は少し辛抱して記録を残そうと思う。

 

 

水曜日、今日から気持ちをあらためて働くぞ!なんて思っていたけれど

電車から降りたから涙が止まらず。

仕事が始まればなんとか働けたけど、正直記憶があまりない。

夕方頃に限界を感じていつもより早く帰らせてもらい

帰宅後昼寝から覚めたら起き上がれず、ここにきて初めての嘔吐。

つわりはなかったのに?

 

吐いても吐いても、胃が痙攣するほどまだまだ出したいと胃腸が動いている、それくらい強い吐き気に襲われた。

これが、赤ちゃんがいるつわりならよかった。

でも赤ちゃんがもう育っていないのがわかっている時の、あの強い吐き気だったから

肉体的にも苦しくてたまらなかったけど

心がとにかく痛くて痛くて

なんでこんなに気持ち悪いのに、あかちゃんはいないのか。

本当に理解ができなくて、とても辛かった。

 

あまりの吐き気に心配になり、親に電話をして少し落ち着く。

 

金曜日の受診予定を1日早めて、木曜日にいつものクリニックへ。

 

いつもの看護師さんは本当に優しくて。

待合室で座っていることが辛くて、でもそれを受付に言えなくて

 

ちょうどそんな時にあの看護師さんがきてくれて

寝てよう!と、奥の部屋へ連れて行ってくれた。

 

ようやく呼ばれた内診。

ただの稽留流産 (「ただの」なんてないけどね)だと思っていたら

???なできごとが起こる。

卵黄嚢のリングがまさかの二つ。

 

①双子ちゃんを妊娠していた(動いていないのに、言われた時にすっごくすっごく嬉しかった)

②胞状奇胎かも

 

②の危険を考えると早めの処置が必要で、自然排出のプランを変えて総合病院にかかることになった。

 

翌日に行こうと思っていたけれど、

いてもたってもいられず、その日のうちにもう一つの病院へ行った。

 

長い待ち時間の後、診察を受けて

「手術、明日はどうですか?」と。

 

おお。

 

驚いたけど、3連休もあるし、先の不安を考えると早く済ませたい気持ちもあったから同意した。

 

そこから急遽、即日入院、翌日手術とポンポンと決定した。

 

あまりにも急な出来事で

 

診察が終わったら病院近くにあったマックでやけ食いしてやろうなんて思っていたのに

お昼を食べるタイミングすら失った。

 

 

家族に連絡すると、仕事終わったらすぐ行けるよ とか

主人は 千葉の遠方での仕事の日だったのを切り上げて来てくれた。

ありがとうでいっぱいだった。

 

ラミナリアも痛いけど、先生素早くてとてもお上手で

卵管通水検査の時より、よっぱど楽に感じた。

(あの時学んだ、子宮のぎゅーって痛みへの認知)

 

その後もお腹の張りがきつかったけれど

耐えるしかなかったから。

 

一瞬この処置の後に駆けつけてくれた主人とばいばいできたのがよかった。

 

この日の夜は、眠れないのかななんて思ったけど

突如のことへの戸惑いで疲れて、一瞬で眠りに落ち、朝までずっと眠った。

 

朝は長くて。

 

予定が前後すると言われひたすらに待っていた1日。

 

点滴も地味に痛い。

 

でも救われたのは、看護師さんがどなたもとっても優しくて丁寧だったこと。

本当に素敵な方ばかりの、1泊で大好きになってしまう産婦人科だった。

 

時々、赤ちゃんの泣き声が聞こえた。

 

以前誰かのブログで、流産手術で入院時、新生児の声や姿が辛すぎると悲痛の声を見たことがあった。

 

でも私には、大丈夫だった。

 

こんなに辛いことがあっても

赤ちゃんの声は可愛くて

新生児室にいたとっても小さな赤ちゃんは可愛くて可愛くて

できるなら近づいてじっと見つめたかった。

私はやっぱり赤ちゃんが大好きで、産みたいんだと思った。

(水曜の勤務の時も、自分が赤ちゃんから目を逸らすと思っていたけど可愛くて仕方なかった。)

 

(入院前のPCRが陣痛室だったのはむかついたけどね!!)

 

 

待てど暮らせど時間は進まず

お腹が空くばかり・・・・・

 

入院してからメンタル面は意外と平気だったのに、

というよりばたばたしすぎて悲しむ暇もなかったというのが正直な話。

時間ができたら、急に悲しさが募ってきた。

手術をこれからする実感が湧いて

お腹から本当にいなくなってしまうんだ、と。

お腹にいたって、もう育つことはできないのに

それでも寂しくてたまらない気持ちになった。

生きてなくてもいいからお腹にずっといて欲しくなった。

 

ないていたら、ちょうど手術のコール。

 

ストレッチャーに乗って、上の階へ移動した。

中国系の若い看護師さんが担当でついてくれてこれまたとても素敵な方。

でも、自分の名前を言ったり

今からなんの手術をしますか?に答えたり

その瞬間が本当に苦しかった。

誰が泣かずに「子宮内容物除去手術」なんていえるだろうか。

 

術直前まではただ涙を流した。

大泣きせずに、ただ静かに涙を流した。

私は冷静だった。

 

そして麻酔が効き始めた。

独特な匂いがした気がした。

ビリッと染みた。

一呼吸で、眠った。

 

気づいた時には入院部屋のベッドの横にストレッチャーをつけてもらって、

自分でベッドに移動した。

 

痛くも痒くもなく、体がぼんやりとするだけ。不思議だった。

 

そこからはあまり良く覚えていない。

 

記憶にあるのは雷と大雨の音、急な土砂降りだったらしい。

 

看護師さんは最後まで優しくて、いつまでもそこにいたかった。

 

そうそう、最後の診察では、胞状奇胎の可能性はほぼ否定され

やはりふたごちゃんのリングだったと。

産めていたら、一卵性の双子ちゃんだったのか・・・。

 

 

 

帰る時がまた、色々ときつかった。

 

旦那さんが来てくれたのだけれど

天気のせいでタクシーもなく、電車で歩いて帰った。

迎えに来てくれてありがたかったのだけれど

ちょっとしたことで私がむむむ??となってしまった。

きっとすごく疲れていたから。

 

帰ってからも、むむむ?むむむむむむむむ?

いろんなことにむむむ?。

辛かった。

 

感謝しているのに、色々尽くしてやってくれているのに、

私はむむむ?をむき出しにするの?

でも、それを私が我慢するの?それもおかしい。

 

結局、退院日にさんざんな喧嘩もした。もうそれもたまらなく辛かった。

自分がどれだけ疲れているのかも良くわかった。

旦那さんも私のために動いてくれて、どれだけ疲れているのか、大変だったかも良くわかった。

 

こんなだから、赤ちゃんは安心して生まれてこられないのかな、なんて

とても悲しいことを考えてしまったりもした。

 

 

翌日からはあまり覚えていない。

子宮収縮剤がとにかく痛い。

何もする気にならない。

悲しい。赤ちゃんに会いたい、赤ちゃんを産みたかった。

特に朝と夕暮れの時間帯がきつい。寂しい気持ちになる。

 

 

いちにち、大好きな多摩湖に行った。

前回の流産の時もきたところ。

小さい頃から継続した思い出がある、自分の人生にとって大切な場所。

歩きすぎて、日焼けしすぎて、疲れてしまった。

でも、こられてよかった。

 

その次の日は、親が家に来てくれた。

嬉しかったけど、同時になぜかとても寂しい気持ちもした。

 

散歩するたび、痛みが強まり

なんだかまた寝たきりに戻った。

 

翌日も全然朝起きられず、動けず。

 

私はなんで生きているんだろう?となった。

 

今、趣味もない

会える友達もいない。

 

なんで生きているんだっけ?

 

この1年弱をずっと、子どもがほしい

これに捧げていたからかな

子どもが欲しい、のベクトル以外で

したいこと、やりたいこと、が思いつかない。

 

それが苦しい。

 

この1ヶ月は赤ちゃんがいてくれたけど

いなくなった今、孤独しか感じるものがない。

 

孤独とお腹の痛みだけ。

 

正直本当に辛い。

 

明るみが見えてくる日が信じられない。

 

今は何を考えようとしても

ふたごちゃんに会いたかった。

産んであげたかった、育てたかった。これしか出てこない。